DearMumもペット版保健室なのかも

これ、本当に読んでほしい。。。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191116-00068401-gendaibiz-life&p=1

 

読む人によって見えるものは
違うと思うけれど…

わたしは、のっけから
「それわたしのことです!」
と胸に響いた。

そして、「子ども」を「ペット」に
置き換えることもできる。

あなたは、どう読まれますか?

 

=======

「子どもたちの心身課題が変化してきた」と
言われていた時代の子どもが、
すでに親となり次の世代を生み育てている

=======

 

はい! その通りです。

わたしが小学4年の頃
だったと記憶している。

毎日学校で頭痛が起きる。

目立ちたくないから本当は
行きたくなかったけれど、
あまりの痛みに保健室へ。

毎日続くので取り合ってもらえなくなり
(たぶん仮病と思われた)
我慢するようになった。

 

記事中の

(2)体調不良の背景から見える「心の問題」

まんまである。

いつの間にか、それは起こらなく
なったけれど、今、こうして人の心の
勉強をするようになってからわかる。

家庭が不安定だったことが、
原因だったということが。

いわゆる機能不全家族で出来上がった
アダルトチルドレン。

それがわたし。

 

そして、記事の通り、
次の世代を生み育てた。

まるで心理学の教科書に
掲載されている事例かのように、
また同じような子供が出来上がった。

でも、母親となったわたしは
気が付かなかった。

気づかないというより、
何かがおかしいとは思ったけれど、

何がどうおかしくて、

何をどうすればいいのか、

わからずにいた。

 

自分の心をほじくり返すのも嫌だった。

まして、子供の頃に、両親から躾を
大きく逸脱した行為を受けていたことは、
わたしにとっては人生最大の恥でしかなかった。

他人に相談できるはずもない。。。

心の奥底に鍵を幾重にもかけて封印した。

けれど、墓場まで持っていくと
決めたことは完遂することはできなかった。

 

きっかけは、愛犬・小雪が
繋いでくれた人のご縁だった。

親身になってくれた獣医さん。

そこからの紹介で知り合った先日の
メルマガにも登場した村田みのりさん。

彼女のワークショップに年に一度出席し、
個人セッションを受けながら、
心の南京鍵が一つずつ緩み、時に外れていった。

 

そんな頃に自分の命よりも大切だと
感じていた小雪を病気で失いそうになった。

小雪は、わたしにとっては
人間の2人の子供に次ぐ末っコだった。

小雪も含め、子供たちにはわたしの
幼少期の辛い体験はさせまいとした。

 

後から気づいたことだけれど、
わたし自身が親からしてもらいたかったことを
全部して育てたかったのだと思う。

三人の子供はそれそれが、
幼少期の自分自身なのである。

だから、そのいつまでも三歳児のままの
末っコを亡くすということは、
三歳児の自分自身を亡くすということ。

失うかもしれないという怖れ(予期悲嘆)や
ペットロスなどの喪失の悲しみが、
なぜこんなにも辛いのか、
人によっては人間家族を亡くすよりも
辛くなることがあるのは、
なぜなのか・・・

 

その答えは、自分自身を失うことに
他ならないからである。

(このあたりのことは、また改めて記事にしたいと思う。

実は、ペットロスの根源的な深い癒しは、
我がコとのお別れを癒すだけでは、
残念ながら片手落ちなのである)

わたしの心の最後の鍵を外したのは、
アニマルコミュニケーションだった。

 

アニマルコミュニケーションを勉強し始めた頃、
動物の愛に触れ、

子供の頃に欲しくても欲しくても
手に入らなかった愛を手に入れたような、

愛を感じたような、

愛の温もりを知ったような
感覚になった。

動物たちの無償の愛が、
わたしの頑なな心を完全に溶かしてくれた。

 

それまでに心の奥から出てきたのは、
怒り、恨み、辛み、悲しみ、淋しさ・・・

どす黒い感情が解放されていくと、
どんどん視界がクリアになっていくのがわかった。

身も心も軽くなった。

 

そんな頃、20年間の専業主婦から
アニマルコミュニケーターへ転身することとなった。

負のスパイラルが44歳にして反転した。

そんなうれしい出来事の反面、
思春期を迎えた2人目の子供がおかしくなり始めた。

陰鬱な子供だったわたしとは違い、
個性は強くはあったけれど、
明るく人気者だったために、

子育ては大変ではあるけれど
うまくいっているものだと思い込んでいた。

 

見えなかったもの、見ようとしなかったものが
見えるようになっただけなのかもしれない。

自分と同じ想いをさせたくない
というその想いこそが
重かったのだろうとも思う。

結局は形を変えて
同じ想いをさせてしまって
いたことに唖然とした。

大嫌いで恨んでいた母親と、
自分が何も変わらない事実。

知らぬうちにバトンを
渡してしまっていた。

 

バトンがさらに次の世代に渡らぬよう、
わたしなりの方策を講じ、
それはいまだに継続中である。

本当に渡らなくなるのか、
渡ってしまうのか、
それはわからないし、
そもそも渡す存在を生み出さない
選択をするのかもしれない。

 

保健室は、家庭内の未消化物が
吐かれる場のように感じた。

そして、そういう意味では、
DearMumもまたペット版の
保健室なのかもしれない。

 

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191116-00068401-gendaibiz-life&p=1

あなたは、
どうお読みになられましたか?